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エスペランサSC代表・コーチ オルテガ・ホルヘ・グスタボさん(前編)

エスペランサSC 代表・コーチ オルテガ・ホルヘ・グスタボさん


エスペランサSCトップチームのコーチであり、現在はクラブの代表を務めるオルテガ・ホルヘ・グスタボ氏は前身のエスペランサ・サッカースクールが2003年に創設時からの中核メンバーだ。トップチームの監督を務める父オルテガ・ホルヘ・アルベルト氏と並びチームの顔と言える存在で、ジュニアユースの指導も兼任し、スポンサー企業への営業、父の通訳もこなすなど八面六臂の活躍を見せている。前編はそんなグスタボ氏の生い立ちや家族への想いを紹介し、後編ではエスペランサSCの代表としてクラブにかける想いをお伝えする。


1982年にアルゼンチンで生まれたグスタボ氏は、現役のプロサッカー選手であった父オルテガ氏がチームを移籍する度、引っ越しと転校を繰り返す生活だった。サッカーが盛んなアルゼンチンで、プロサッカー選手である父を持つことは子どもにとってとても誇らしいことであり、「どこに行っても楽しかった」と振り返る。グスタボ氏が初めて日本に訪れたのは1994年だった。父オルテガ氏が鳥取県倉吉市にあるサッカークラブを指導することになり、当時12歳だったグスタボ氏は家族と共に来日。同県内にある小学校に、現在はエスペランサSCトップチームの選手兼チームドクターとして共にチームを支えている弟パブロ氏と共に通うことになった。


エスペランサSC代表 オルテガ・ホルヘ・グスタボ氏


日本語を話せなかったグスタボ氏とパブロ氏は、当時の教頭から1対1で日本語を学んだ。お互いの母国語が話せないため、教頭が日本語で「椅子」という言葉を教えるときに椅子を触りながら説明していたことをグスタボ氏は「凄く印象的だった」と話す。教頭のそんな親身な指導の甲斐もあり、日本語を3カ月で話せるようになったグスタボ氏は、当時から父の通訳を手伝うなど当時から父オルテガ氏を支えていた。その後は県内の中学校を経て、元日本代表サッカー選手の本田圭佑選手などを排出した星稜高校に入学。そこで1年間を過ごしたが、父オルテガ氏が当時契約していたチームとの5年に渡る契約を終えたことにより、グスタボ氏は家族と共にアルゼンチンへ帰国することになった。


帰国したグスタボ氏は、地元であるアルゼンチン北部にあるレデスマ、フフイで2年間高校生活を過ごす傍ら、社会人リーグのチームに監督として就任した父オルテガ氏と共に所属。中心選手として活躍が認められたグスタボ氏は、単身でブエノスアイレス州にある名門チームラシン・クラブ、父がかつて所属したデポルティボ・エスパニョールにテスト生として入団。プロ入りを目指して奮闘していた。


そんなグスタボ氏が再び日本に訪れる転機となったのが2002年に開催された日韓ワールドカップだった。父オルテガ氏は本郷台キリスト教会の池田恵賜牧師との出会いを経て、「青少年の自殺率が高い日本でサッカーを通じて子どもたちの成長を助けたい」という想いのもと日本でのサッカースクール立ち上げを構想することになったのだ。そんな二人の構想にグスタボ氏は前向きな気持ちでいたが、当時グスタボ氏の母は難色を示していた。そんな中、恵賜牧師の父で当時、同教会の主任牧師だった池田博氏はフフイにいるオルテガファミリーを訪れ、サッカースク―ルに懸ける想いを伝えたという。日本からフフイまでで往復72時間、僅か二日の滞在という強行スケジュールで、現地を訪れたその行動力について「(その行動力が)凄かった。お母さんの心を動かした」と、当時の様子をグスタボ氏は振り返る。その結果、オルテガ一家は日本でのサッカースクール立上げについて同意することになった。


サッカースクールの構想が現実のものとなりグスタボ氏は、体調が思わしくなくなってきたオルテガ氏の日本での挑戦を支えたいと考えた。そのため当時所属していたアルゼチン国内のサッカーチームからフリーとなり、日本国内でのプロ入りも視野に入れて家族と共に来日。エスペランサ・サッカースクールのコーチを務めた。しかし、物事は順風満帆には進まなかった。グスタボ氏は、Jリーグの控えメンバーによるサテライトリーグなどに参加し、プロ入りの挑戦を続けたが厳しい外国人枠に阻まれてしまい、1年後にはグスタボ氏のみビザが下りないという事態が発生。グスタボ氏はアルゼンチンへの帰国を余儀なくされてしまう。


ビザの取得を視野に入れながら、一度母国へ帰国したグスタボ氏は、コーチの資格取得を目指し専門学校で勉学に励む傍ら、体育大学にも入学し、さらには「弁護士になって欲しい」という母の願いにも応えるため、ラテンアメリカで最高峰の大学と言われるブエノスアイレス大学にも入学。「昼食を食べられない日もあるほどずっと勉強していました」とグスタボ氏は当時を振り返る。午前中はブエノスアイレス大学で学び、午後からは体育大学で体育教師の資格取得、夜はコーチ資格取得のためそれぞれ勉強するという、まさに勉強漬けの生活を過ごした。そんな日々が1年過ぎたころ、日本に戻ってきて欲しいという父オルテガ氏の想いをグスタボ氏は改めて聞くことになった。父オルテガ監督を支えたいという想いを持ち続けていたグスタボ氏は、丁度そのタイミングでビザも取得できたため退学を決意。再来日を果たした。


グスタボ氏にとって家族は、何よりも優先する大切な存在だ。「ビザを取得すれば日本に戻ることはわかっていた」にも関わらず、ビザ取得のためにコーチ資格を取る傍ら、ブエノスアイレス大学に入学したのは「お母さんに喜んで欲しかったから」だった。再来日後、星稜高校時代の恩師に声を掛けられ、ツエーゲン金沢(現在J2)に初めての外国人選手兼コーチとして入団し、サッカー選手として再び歩み始めた時も、父オルテガ氏が体調不要になったことを受け、「家族一緒に過ごした方が良い」と判断し、退団を決意。エスペランサに戻ったのだった。「家族の喜ぶ姿が見たい。」「家族が辛い状態のときはサポートしたい」、家族と何かを天秤にかけなければならなくなったとき、グスタボ氏は常に家族を選んできた。グスタボ氏をはじめ親子兄弟が家族をお互いに支え合う姿は、エスペランサSCが持つ団結力の強さの原型となっているように思える。


常に家族、エスペランサSCを優先してきたグスタボ氏

後編はエスペランサSCの代表としてチームに懸けるグスタボ氏の想いをお伝えします。

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